全国で唯一、すべての自治体が核ごみ拒否を明言する岡山県の長い歴史

恥ずかしながら、知りませんでした。

岡山県内の自治体すべてが、「高レベル放射性廃棄物の受け入れを拒否」しています。

それも、2005年から、合併後も首長が変わっても、ずっと。

岡山県の歴史から、地域にとって「核ごみ受入れ反対」とはつまり何に反対する歴史だったのか、考えてみたいと思います。

上:岡山市内。文化的?な建物やオブジェが潜んでいる。


突然の連続

岡山県の核ごみ―高レベル廃棄物との闘いは、1981年の山宝鉱山から始まります。

川上郡の三町、川上町・成羽町・備中町の山間を流れる成羽川のそばに、金平工業(株)(現 (株)同和カルファイン)の山宝鉱山がありました。

このころ、成羽町の町長が町議会全員協議会で突然、「山宝鉱山における試験研究の受け入れ」を表明。

一人抵抗した議員を中心に情報入手と反対運動を行いますが、試験は予定通り行われてしまいます。

どんな試験だったかというと、

名目としては「低レベル放射性廃棄物処理、処分の試験研究」。

しかし実際のところは「高レベル用の岩盤内試験」だった、と言われています。

国も、「放射性廃棄物の処分は、民間電力会社が決める。山宝鉱山を処分地にしないという確約は出来ない」と回答しているとのことです。

その後、もう一度大きな事件が岡山県内で起こりました。

1985年の12月9日、新見市議会12月定例会にて、社会党の議員が

「国・産業界は高レベル廃棄物を岡山県哲多に建設する腹を固めた」

と発言し、衝撃が走りました。

この発言の発端を探ってみると…

1985年5月23日に、土木通信社(いわゆる業界紙)である「プロジェクト・ウィークリー」で、『高レベル放射性廃棄物処分施設、岡山県・哲多に―4000億円超す計画、国、立地方針固める―』という記事を掲載したのです。同じ年の6月28日、電気タイムス社の「エネルギー動静」にも、同じような記事が掲載されていた。

山宝鉱山の反対運動を行っていた方々も、当然、普段から業界紙は読んでいないため(当時はインターネットもなかったでしょうから)、かなりの衝撃だったそうです。それも、12月の定例会で議員が暴露するまで、わからなかった。

もう少し時間をさかのぼってみると、

実は1985年というのは、動燃(動力炉・核燃料開発事業団。現日本原子力研究開発機構)が全国的視野で環境調査を開始した年でした。

また、この年の夏ごろに、阿新地域の議員等々が東海村の原子力施設を視察していたようなのです。さらに、同じころにある人物が荒戸神社周辺に試掘兼を申請し、哲多・哲西両町長に利権書の調印を迫ったけれど、両町長とも拒否したそうです。


業界では、すでに動きが始まっていたのだ――


考えてみてください。

自分が哲多町の住民で、土木業界では自分ちの裏の土地がすでに最終処分場候補地となっていて、すでに試掘しようとしている…

そんなことが実際に、1985年の岡山で起こっていたのです。

1986年、動燃は中国地方で地質環境調査・ボーリング調査を開始します。

これに対し、社会党を中心に市民側は、機関誌を哲西町と高梁(たかはし)川流域に5万枚配布。この時、街宣やチラシ配布全戸訪問などをして哲西町民の90%を超える請願書名を提出する運動を展開しました。

そして哲西町長に対して「核廃棄物を持ち込ませないよう」要請します。

結果として、

1988年3月31日、哲西町町議会で、町長提案により

「放射性核廃棄物持ち込み拒否条例」を全会一致で採択させることができたのです。


ただし、これで闘いが終わったわけではありませんでした。

1980年代後半は、国が最終処分場建設に向けて大きく動いた年であり、中でも岡山県内が処分場候補地として取りざたされた時期でもあります。

中国地方の花こう岩地帯が、建設に必要な安定した地層として魅力的だというのです。

県内が狙われている―という懸念から、この闘いは岡山県全域に拡大していきます。


                        …続く。


参考文献:放射能のゴミはいらない!県条例を求める会、1990年、「岡山に放射能のゴミはいらない!」

核ごみプロセスをフェアに!

商業用原発が稼働してから60年の間に、約18,000トンの”使用済み核燃料”が排出されました。これまでの処分場誘致のプロセスは決して民主的なものとは言い難い結果です。そんな中、経産省は、2017年度中に高レベル放射性廃棄物の処分地に適した地域をマッピングして、公表する予定です。そこでA SEED JAPANでは、「公正なプロセス」とは何かを探るため、草の根のプロジェクトを立ち上げました。

0コメント

  • 1000 / 1000